【動画目次】
0:00 OP
0:56 鎌倉幕府・源頼朝
4:06 承久の乱・北条政子 vs 後鳥羽上皇
9:55 北条氏執権の時代と元寇
20:01 NEW仏教SIX
30:24 鎌倉幕府の終焉
36:34 建武の新政と室町幕府
38:32 南北朝合体と室町文化
44:16 足利義政・応仁の乱

【日本史①】

【日本史②】

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この動画の参考文献:
「早わかり日本史」 河合敦(日本実業出版社)
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協力:日本実業出版社
※この動画は出版社の許諾を取った上で配信しています

23 Comments

  1. 中世日本としたら『極楽征夷大将軍』の足利尊氏面白いですよね!
    なんか頼れないけど人間臭くてどっか可愛い
    でも一男性としては楠木正成が好きです
    頭もいいし性格もいいし

  2. 眞田信繁(幸村)の薩摩落ち(その1)

     滋野氏から海野氏、望月氏、根津氏が分かれた。海野氏から眞田氏が分かれた。村上義清に侵略された眞田幸隆は武田信玄に仕えた。眞田幸隆には信綱、昌輝、昌幸、信伊などの子供がいた。眞田昌幸には信之、信繁(幸村)、信勝、昌親などの子供がいた。

     眞田信繁(幸村)には阿菊、於市、阿梅、あぐり、幸昌(大助)、御田姫、阿昌蒲、おかね、女(石河備前守貞清室)、女(青木次郎衛門室)、大八(守信)、幸信、之親、瓢左衛門がいた。薩摩落ちし眞田信繁(幸村)の子が瓢左衛門である。

     実は真田氏のルーツに関して「海野氏の末裔である」ということ以外、詳しいことは判明していません。しかも、その海野氏も、平安時代末期に木曾義仲に従った「海野幸親(うんのゆきちか)」以前のことはほとんど判明していません。

     滋野氏は平安時代初期に編纂された『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』という系譜集によると、「紀直同祖(きのあたい)」で、「神魂命(かみむすびのみこと)五世孫天道根命(あめのみちねのみこと)」の末裔とされています。天道根命は天皇の末裔ではないので、平安時代には滋野氏は天皇家とは血縁の関係のない一族であると考えられていたことがわかります。

     ※紀直(きのあたい):紀伊国造(きいのくにのみやつこ、現在の和歌山県知事のようなもの)の一族で、紀貫之などの紀氏とは別の一族)と同じ一族という意味。

     どのように信濃国に土着あるいは勢力を築いたのかについては、「地方官が任地に土着し、地方豪族となる例は少なくなかったので、滋野氏もそうであった」という説や、「滋野恒蔭や善根やその子供が直接信濃国に根付いたのではないが、寛弘6年(1089年)に信濃国から献上された馬の処置を司った、善根の子孫と考えられる『滋野朝臣善言(しげののあそんよしこと)』がいるように、早くから信濃国と滋野氏には深い関係があった」という説、「地方官が任地において荘園を経営したことは頻繁にあったので、滋野氏も荘園の管理者として信濃国に土着した」という説などがあります。

     滋野家訳が滋野宿禰の姓を賜る前は伊蘇志臣を名乗っており、家訳の祖父が伊蘇志臣の姓を賜る前は「楢原造(ならはらのみやつこ)」を名乗っていたのですが、この「楢原」は、現在も東御市にある「奈良原」に由来するという説もあります。ただし、楢原という地名は大和国(現在の奈良県です)や播磨国(現在の兵庫県です)にもあったことが判明しているので、確実ではありません。

    大阪冬の陣

     東西の武力衝突によって決着をつけなくては、家康政権を完全なものにできない。豊臣家を完全に葬り去らなければ、禍根を残すことになる。家康はそう考えた。

     徳川家康との手切れを悟った豊臣秀頼が諸国に兵を募ったのは、慶長19年(1614)10月であった。これに応じて、眞田信繁(幸村)らは、大坂城入りを果たした。

     当初の軍議では、「急遽、宇治・瀬田の橋を落とし、川船を焼き、敵陣に間者を送り込み、離間策を用いれば、敵は相互不信に陥る。そこで、一気に攻めたて、その上で、神出鬼没の強襲を繰り返せば、敵はおのずと崩れていく」という瀬田川出撃策を提唱し、籠城戦を否定した。後藤又兵衛ら浪人の大方がこれに賛成した。しかし、秀頼に従う譜代の臣は城に期待を寄せるあまり、よそ者である眞田信繁(幸村)の献策を拒絶した。

     主将格の大野治長は、籠城戦を強行した。

     大阪城の西は海、北は天満川、東は沼地だったので、丘陵地帯の南だけが戦場になることは始めから分かっていた。そこで、眞田信繁(幸村)は、総構の外の南西に出丸を造ることにした。軍議でこれが了承され、眞田信繁(幸村)は、眞田丸という一種の「馬出し口」を造って、奮戦した。これは一種のトーチカであったことが発掘調査で分かった。日露戦争の時、乃木大将が203高地を攻めた際、ロシア側がトーチカを作って奮戦したため、日本側に甚大な死傷者を出したが、眞田信繁(幸村)は戦国時代に既にこのトーチカを造っていた。また、当時にはまだない今の拳銃のようなものも作った。兵士の鉄砲も3人がかりで持たなければならない大きなものだったため、徳川方の鉄砲より射程距離が極めて長く、なかなか徳川方は真田丸に近づけなかった。加えて、真田丸の南側は原っぱなどではなく、市街地であったため、徳川方が攻めてくる道からは真田丸の様子は見えず、徳川方に甚大な被害を与えた。

     この眞田丸は、大阪城二の丸西南門の南方に当たる高台の畑地に、大阪城との間の谷などの地形や寺などの既存の施設を利用して短期間で作られた。夏の陣でも既存の地形を利用して、第2、第3の真田丸を作っている。三方の空堀をほり、塀をめぐらし、塀の外と空堀の中、それに塀の外とに三重の柵を構え、随所に矢倉や井楼を設け、塀の腕木の通りには幅七尺の通路を造って行動を自由にした。総構の外に出ること40間(72m)、東西に長く南北に短い新月型の砦だった。

     眞田丸の正面には、加賀百万石の前田利常が陣取り、その後方に徳川秀忠の本陣があり、秀忠陣の左手・茶臼山には家康が陣取っていた。

     当時の地図によると、眞田丸の前方は篠山という小山だった。そこに毎日、眞田勢が現れて鉄砲を撃ちかけるので、前田勢から死傷者が続出した。眞田勢の射撃は正確だった。おそらく九度山から眞田信繁(幸村)に従ってきた漁師だったのだろう。眞田勢は前田勢が聞き取りかねる方言で囃したてた。意味は分からずとも、その調子からして、挑発の愚弄だということは理解できた。徳川父子から注目されている前田利常は眞田勢の挑発と分かっていながら、功に逸った。眞田丸に忍び込ませていた間者の働きで、内応者が出る手はずにもなっていた。前田勢は3日の夜から出撃の準備を整え、4日の空が明け始めるのを待ちかね、眞田丸に攻めかかると、やがて砦の中で大爆発が起こった。

     眞田の射手が火薬桶の中に誤って火のついた火縄を落としたための大爆発だったが、前田方はそれを内応の合図と取り違えた。ここぞとばかりに兵を進める前田勢に、他の諸隊も遅れてはならじと、軍令を無視して遮二無二攻めかかったので、徳川方は眞田信繁(幸村)の冷静な采配の餌食となって、さんざんに打ち負かされた。

     徳川家康はかねてより準備していた大砲を天守閣に打ち込み、1発が命中したため、恐れおののいた淀君は徳川方との講和に応じた。外堀を埋めることで合意したが、徳川方は内堀までも勝手に埋めてしまった。このため、大阪城は丸裸となった。

  3. いちばん苦手な範囲で流れを理解できていなかったので面白くわかりやすくて50分余裕で見れちゃいました!受験生なので助かります😭

  4. 内乱が南北に分かれやすいのって、気候が違うと違う文化が醸成されやすいからかな?
    日本は狭いから違う理由かもしれないけど…

  5. 教育関係者です。日本史シリーズ再アップ待ってました!
    続編も引き続きお願いします!

  6. 尼将軍がおもろすぎて話が入ってこない(笑) 中田さんの『ギリじゃない』っていうフェミニストなツッコミすきすぎる(笑)

  7. 政治とかよりこういうのたくさんやってほしい。
    政治と宗教と野球はどうしても偏りがでるからね。思想が違えば楽しめない

  8. 'いくさの雄々しい華やかさ'?
    ロシアウクライナ戦争を見て、そんなことはこれっぽっちも思わないなあ。😢

  9. 同じことやってるだけ、つまらん
    やる事ないからって日本史ダラダラ起きた事話すだけで視聴回数稼ぎってか?

  10. 南北に何故分かれるのか。気候や環境が変わる所を境目として生活様式や考え方も分かれる結果だろうか