勝新太郎, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=3343 / CC BY SA 3.0

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勝 新太郎(かつ しんたろう、1931年(昭和6年)11月29日 – 1997年(平成9年)6月21日)は、日本の俳優・歌手・脚本家・映画監督・映画プロデューサー・三味線師範。
本名・奥村 利夫(おくむら としお)。
身長170cm。
血液型O型。
市川雷蔵とともに大映(現・角川映画)の「二枚看板」として活躍。
その後は「勝プロダクション」を設立し、劇場用映画やテレビ作品などの製作にも携わった。
勝新(かつしん)と愛称で呼ばれ、豪放磊落なイメージと愛嬌のある人柄で、不祥事を起こしながらも多くのファンから愛された。
2014年に映画関係者や文化人を対象にしたキネマ旬報のアンケートでは、好きな日本映画男優の第4位に選ばれている。
長唄三味線方の杵屋勝東治と妻・八重子の次男として、母方の実家のある千葉県で生まれる。
生家は東京市深川区(現在の東京都江東区)。
若山富三郎は二歳上の兄。
宇津井健は幼馴染。
旧制法政中学校(現在の法政大学中学高等学校)中退。
十代のころは長唄と三味線の師匠として、深川の芸者に稽古をつける。
長唄の名取は二代目 杵屋勝丸。
1954年のアメリカ巡業中に、撮影所で紹介されたジェームズ・ディーンに感化されて映画俳優になることを決意する。
23歳の時に大映京都撮影所と契約、1954年の『花の白虎隊』でデビュー。
大映社長の永田雅一は勝を可愛がり、白塗りの二枚目として市川雷蔵に次ぐ役者として熱心に主要な役を与え続けたが、思うように人気が出なかった。
同年代の雷蔵・山本富士子・若尾文子が早々とスターとして活躍していくのとは対照的に、憧れの長谷川一夫そっくりのメイクも板につかず、主演作のあまりの不人気ぶりに映画館の館主達からは「いい加減に勝を主役にした映画を作るのはやめてくれ」との苦情が絶えず寄せられるほどだったが、1960年の『不知火検校』で野心的な悪僧を演じたことにより、それまでの評価を一新することとなる。
1961年、二代目中村鴈治郎の長女で同じ大映に在籍していた女優の中村玉緒と婚約。
玉緒とは『不知火検校』や、一匹狼のやくざ・朝吉役で主演した『悪名』(田中徳三監督、今東光原作、依田義賢脚本、田宮二郎共演)などで共演している。
この映画が初のヒットとなりシリーズ化。
1962年3月5日、永田の媒酌で結婚。
続く『座頭市物語』、『兵隊やくざ』で不動の人気を獲得。
1963年に長谷川・山本が大映を退社する中、勝は一躍大映の大黒柱の一人となる。
これ以降、1969年7月17日に雷蔵が死去するまで、大映の2枚看板として「カツライス」と称され、その屋台骨を支えた。
特に一連の座頭市シリーズはアジア各地でも上映され、勝の代表作となっている。
キネマ旬報社『キネマ旬報』第406号(1966)より映画『座頭市地獄旅』ロケ。
中心下が勝新太郎。
右上が監督の三隅研次。
1967年に勝プロダクションを設立、自ら映画製作に乗り出す。
この時期、大手五社によるブロックブッキング体制・五社協定崩壊の中、三船敏郎の三船プロ、石原裕次郎の石原プロ、中村錦之助(萬屋錦之介)の中村プロなど映画スターによる独立制作プロダクションの設立が続いた。
勝プロは、既に経営が立ち行かなくなった末期の大映が傾倒した若者向けの暴力・エロ・グロ路線の作品とは一線を画し、三隅研次・安田公義・森一生・増村保造ら大映出身の監督たちと時代劇の伝統を絶やさぬよう拘りぬいた映画制作を続け、勅使河原宏・五社英雄・斎藤耕一・黒木和雄ら、当時インディペンデントな場から台頭しつつあった監督(斎藤のみは元日活であるがスチルマン出身である)たちとも手を組み、『燃えつきた地図』、『人斬り』などを製作・主演した。
また、一方では『男一匹ガキ大将』や実兄・若山富三郎主演の『子連れ狼』、自身も主演した『御用牙』などマンガ・劇画の映画化やテレビドラマ製作にも進出した。
サンパウロ日伯援護協会のあゆみの箱チャリティショウ。
左から森繁久彌、中沢源一郎、伴淳三郎、志摩夕起夫、勝新太郎、渡辺はま子(1971年8月撮影) 特に1971年、製作・監督・脚本・主演をこなした映画『顔役』は、撮影の殆どを手持ちカメラで行い、極端なクローズアップを多用し状況説明的な描写を廃したカットつなぎなど、典型的な刑事ドラマでありながらも、それまでの日本映画の映画文法を破り、先進的な手法を使った作品…

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